大人の編み物。失敗の自由と快感と
148から、一気に100へ。
これが血圧だったら倒れていた。いや、血圧じゃなくてもヘタりこみそうになった。
編んだセーターを、ほどかなくてはならなかった。148段目まで編んだ編み地を、100段目まで。急降下に心がGを感じる。
毛糸半玉分、距離にして約30メートル。1ミリ1ミリ積み重ねて編んだ30メートルが数分後には消えていると思うと、白い編み地が春の雪に見えてきた。綺麗に例えている場合じゃない。
首から下、お腹までの部分。前身頃というのだけれど、肩口のカーブが甘く、袖と縫い合わせられないことが判明した。減らし目の数が足りなかったらしい。
【フィーリングでちゃんとしたセーターが編めちゃう】なんてYoutubeに飛びつくからこうなるのだ。初心者がフィーリングで編めちゃうわけがない。
横着しようとしたツケ。他に選択肢はない。後悔で身動きが取れなくなる前に、感情が追いつけない勢いで、私は糸を引き出し始めた。
編むの4時間、ほどくの5分。
この5分間が、甘美だった。
ぴん。ぴぴん。ぴぴんぴぴんぴぴんぴぴんぴぴぴぴん。
穴を抜ける瞬間に、毛糸がかすかに跳ねる。くすぐるような丸っこい振動が、途切れることなく指先へ伝わってくる。娘と遊んだ糸電話を思い出す。
そこに混ざる背徳感。私は今やっちゃいけないことをしている。もう引き返せない。止まらない。
思わず途中で目を閉じた。
快感に酔っていると、腕の往復が加速していく。
「ま、いっか。誰に迷惑かけるでもなし」
そんな無責任というか、自由もまた気持ちよかったのかもしれない。ええじゃないかええじゃないか。
ちっともよくないトラブルが、4月に入ってから続いていた。
年度初めは、異動や入退社の季節。毎日エイプリルフールならいいのに、というくらい引き継ぎの落とし穴だらけだった。
しかもIT関係という仕事柄、納品物の利用スタートもまた4月に多い。
一応、営業チームのリーダーなので、現場の責任は私にある。のだが、メンバーだけでなく私自身もミスをし、落とし穴どころか陥没事故のような深みにハマったりした。
「草冠さーん。ユーザー登録できないっつー問い合わせっス」
若手からのエスカレーション。先月に送別会をやった中堅が、納品直前まで進めていたシステムだった。
その置き土産も今月からいよいよ本格稼働。しかしユーザー登録でつまづいているという。メールソフト、ブラウザ、セキュリティ、ネットワーク。あらゆる設定ミスを検討するが、一向に解決されない。
重い内容を軽いノリで報告してきた若手が、ジワジワ恨めしくなってくる。貧乏ゆすりを抑えられない。
「なんでだろ。ん?納品したの6アカウント?」
「知らないス。引き継ぎフォルダの仕様書には60アカウントってあります」
「え。契約書は?」
「60アカウントになってますね」
「えー見積もりは、と。えー・・・6だ・・・」
設定ミス以前の、引き継ぎミス。ドキュメント類を照合するのを怠っていた。せめて見積もりだけでもよく見れば、気づくはずだった。
普通、アカウントは10個単位。6なんていう、半端で不自然なアカウント数はまずあり得ない。
見積もりに承認印を押したヤツはどいつだ。
私だ。
ネクタイを緩める手が、氷でも握っていたように冷たく濡れていた。
実は通常、アカウント数の上限にはある程度の余裕をもたせている。クライアントだって、入社や異動で利用者の数は変わるからだ。
しかし6が60になるのは、もはや余裕の範疇を超えている。人災だ。なんならワタシ災だ。
もちろんこちらの瑕疵なので、「お金を10倍くださいな」などという交渉はありえない。
これで一年間、オブラートのような薄利が続くことが決定した。
どこかでノルマの穴埋めをしなくてはならない。落とし前をつけるのは、私の責務だ。
とはいえ、メンバーにも影響が及ぶだろう。間接的に、ときに直接的に、負担をかけてしまう。
申し訳なさが二重三重にかさなり、ますます首が回らなくなっていく。
それに比べれば、148段が100段になるくらいなんだというのだ。
誰にはばかることのない、私だけの失敗。束の間、自分のために生きている時間を取り戻す。
私は居間で一人、腕を大きく振り続けた。
前身頃を編み直し、後身頃も編み上った翌週。胴体と両袖を縫い合わせ、セーターに仕上げる段階に入った。超合金合体ロボのときめきがある。
棒針をかぎ針に持ち替えて、引き抜き編みで縫い合わせていく。パーツ同士がバラけないように、緊密に。
あ。また間違った。
袖を縫っていたつもりが、縫っているのは後身頃だった。編み地が筒状になり、丸出しの背中にイカを背負っているように見える。どんなシチュエーションだ。
私はカッターを走らせて、縫い合わせた糸をブツブツと切り離した。半熟オムレツに包丁を入れて、ハラリと開く快感に似ている。成功したことないけど。
だんだん、思い切りが良くなってきたのが自分でも分かる。なんなら編むことより、間違えるほうが上手いくらいかもしれない。それもまた上達のうち、ということにしておく。
さて。その後も縫合を進めた今、完成が見えてきた。
そして、新しい危機の予感がしている。
なんか、ものすごく小さく見えるのだけれど。これは気のせいか?

ほどいた糸はちぢれるので、糸をほどくことを「製麺」と言うらしいです。草冠製麺所。
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