映画「ふたりのまま」を観た。私んちも二人のママだった

映画「ふたりのまま」を観た。私んちも二人のママだった
草冠結太 2025.09.30
誰でも

ドキュメンタリーの神様、いたわ。

思わず天井を仰いでしまうほど、奇跡的なラストだった。同じことを感じた観客がいたのかもしれない。エンドロールの後、映画館に拍手が起こっていた。

私はというと、もちろん感動はしたのだけれど、それと同時に少し複雑な気持ちになっていた。懐かしさと怒りがないまぜになったような。

だって、私も”二人のママ”に育てられたことがあるから。かつての私の家族と、映画の家族たちが重なって、他人事ではなかった。

その映画とは「ふたりのまま」。日本に暮らす4組の同性カップル家族を取材したドキュメンタリーだ。

家族たちがおかれた状況は、実にさまざま。精子提供で赤ちゃんを産み、じーじやばーばの協力を得ながら育てているカップル。一緒に暮らしはじめた、子育て中のシングルマザーとそのパートナー。長年にわたる不妊治療に苦戦し、いろいろな限界と戦っている二人。精子バンクを通じて授かった娘さんが、もうすぐ成人を迎える先輩カップル。

4組の選択、幸せ、葛藤、障壁。「よくここまで入り込みましたね」と感心するほど至近距離で撮られた悲喜交々や、そこから垣間見える家族というものの温もりが本作の見どころ。それぞれのお家の匂いまで漂ってきそうだ。

しかし、生殖医療や生殖補助医療関連法の変更、同性婚や職場環境などの問題が、ときに暴力的に家族たちをとりまく。とてもパーソナルで、とても社会的。観客はその間を行ったり来たりしながら、深く考えさせられることになる。

映画を見終わった時、私は「あの家族たちは、私たちだ」と感じた。私も母子家庭で育った。その後やってきた母のパートナー、つまりステップファーザーたちと一緒に暮らした。社会人になって娘を授かったが、妻は高齢出産だった。生殖医療の恩恵にあずかったものの、長年の不妊治療は苦しい消耗戦だった。今、義母は娘の一番のサポーターになってくれている。私たちは、私は、作中の家族たちと似ている部分が多かった。

そして何より、私にもママが二人いた時期があった。私の母と、母の友達Kちゃん。私と弟、Kちゃんの娘を入れて、ママ二人・小学生三人の5人家族。一緒に暮らしたのは1990年前後、今から35年も昔のこと。

母は歌舞伎町で、ヤクザ専門クラブのホステスをしていた。Kちゃんは生保レディとピンサロ嬢のかけもち。金なし、学なし、身寄りなし。元ダンナたちがこさえた借金をかぶっているところまで同じだった。

「アンタんとこも?うちも!」

戦友、現る。シングルマザー二人は共同生活をすることに決めた。

ママが二人いる生活は、景気は悪いが元気はあった。男兄弟だった我が家で、初めてお雛様を飾ったり。当時ヒットしていた爆風スランプの「リゾ・ラバ」を替え歌して、「嘘じゃないさ うぶじゃないさ 夏の女はヤカマシ〜」と繰り返しながら、車検切れのクルマで海にいったり。Kちゃんの作る柿のコンポートで「果物を煮て食べるなんて」と衝撃を受けたり。東京ラブストーリーのラストには、「3年後ってなんだよ!」とみんなで文句を言い合ったり。

ママが二人だったからって、何の変哲もなかった。同級生にイジメられた記憶もない。他所様と同じような、それでいてどことも似ていないような、ありふれた生活だった。

そんなある日、母が起き上がれなくなった。

「救急車代がもったいない。K、結太、病院つれてって」

Kちゃんがクルマを飛ばし、母を深夜の病院へ担ぎ込んだ。「心臓がかなり肥大しています。通常の倍ほどになっています」お医者が事務的に告げた。緊急入院。

「妹さんですか?」

お医者が少し怪訝そうに尋ねる。

「いえ、同居人です」

Kちゃんが答えると私たちは診察室に通され、お医者から容態を詳しく説明された。しかしよくよく聞いていくうち、それまで数カ月にわたる診断が誤診だったと判明した。

Kちゃんが、キレた。

「それっておかしいですよね!?これまでの話とぜんぜん違うじゃないですか!」

Kちゃんの声が廊下にまで響くのがわかった。

「まぁまぁまぁ」

お医者が半笑いで宥める。それがまたKちゃんを逆撫でした。

私は正直、母を失うことよりも、Kちゃんの剣幕の方が怖かった。しかしあの激昂は、私たちを守ろうとしてくれたものだと、今ならわかる。すっぴんで食ってかかるKちゃんの表情。あの夜、私にとって家族は、血縁だけで語れないものになった。

かつては親族でなくても、医師が信頼できると判断した友人や同僚なら、病室や治療室に通されたり、病状を聞かされたりすることは珍しくなかった。しかし、今は違う。基本的に「家族」でなければ、容態をきくことはできないし、面会も制限される。もしあの夜、Kちゃんがお医者に門前払いをくっていたら。そう考えると、恐ろしくなる。私たちの時代は、たまたまユルかっただけ。運がよかっただけ。

プライバシーの意識が高くなること自体は、好ましいことだと思う。法律や制度が整うことも必要だ。でも法律や制度は必ず、そこに入れる人と外れる人を作り出す。その時、社会の差別意識や構造があらわになる。

現在、かつての母とKちゃんのような二人は、病院で「他人」として扱われる。それだけじゃない。相続で、年金で、保険で、税制で、社会のライフラインの多くで「みえないこと」にされている。

分かってる。私の母たちは異性愛者だった。いわゆる恋愛や性愛で結ばれた関係ではない。だから、映画の中の同性カップルたちと状況も選択肢も大きく違う。一緒にできない。それは分かってる。

でも。私たちは家族だった。ママ二人子ども三人の、何も恥じるところのない家族だった。私は今でも家族というものを信じている。それが何よりの証拠だ。だから、知っている。映画の中のカップルたちもまた、間違いなく家族なんだ。私たちとあの家族たちは、何も変わらない。

人間はひとりで生きるように進化していない。だから結婚は、幸福の追求であると同時に、人が身を寄せ合ってサバイブしていくための生存権でもある。それが同性同士だったらどう変わるというのか。多くの調査で、国民の6〜7割が同性婚に賛成している。一緒に生き抜こうと思える関係を、他人がどうこう決めてかかるって、ここは封建社会でしたっけ?同性婚を、一刻も早く。私が感じた怒りは、それだ。

しかし憤ってみたところで、それは社会を変えようとしてこなかった自分を棚に上げているだけでもあり。映画館を出てからも、心がブツクサ言って止まらないドキュメンタリーは、いいドキュメンタリー。

とはいえ私があんなに腹が立ったのは、あの家族たちの幸せが、それだけかけがえのないものだと伝わったからだ。やはり「おめでとう!」に包まれた作品であることは間違いない。赤ちゃんかわいい。

とくにあのラスト。繰り返しになるが、”アレ”を奇跡と呼んでいいものかどうか。しかし”アレ”を撮れたことは、やっぱり奇跡的としか言いようがない。あの瞬間、窓から差しこんだ光と、彼女の笑顔を、私は絶対に忘れない。このシーンだけでも、チケット代の価値はある。

さらに深読みするならば、実はこのラストは冒頭のシーンと円環構造になっていると感じた。この映画を観ている間にも、どこかで命は生まれ、誰かがママになりパパになる。連綿と巡る営みに何を見るかは観客次第であり、この映画の奥深さ、味わい深さでもある。

おそらくこの映画は、配信もDVD化もできないと思う。やっぱり今はプライバシーの問題があるから。だから映画館でやっているうちに観るしかない。

映画「ふたりのまま」。一人でも多くの人に観られてほしい作品です。あの家族たちを見届けることは、どこかの家族を守ることにつながっている。そう思えてならないのです。

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