2回観たくなる映画「みんな、おしゃべり!」感想
新年早々、アイツはホントに話が通じない。きっとアイツも、草冠はマジで話が通じない、そう思ってる。2026年も、そんな素敵な同僚たちとの仕事が始まりました。
でも。「そこが面白いんじゃない」今年はそう思えて、少し気が楽だったりします。なぜならお正月休みに、映画「みんな、おしゃべり!」を観たから。
このコメディ映画が、べらぼうに面白かった。私は1月4日の朝10時の映画館で鑑賞したのですが、満席でした。しかも上映中ずっと、笑い声が絶えなかった。「あーはっはっは」伸ばして笑う人と一緒になったの、いつぶりだろう。
映画の舞台は、とある小さな商店街。ろう者の父と弟がいる古賀一家が、近所に引っ越してきたクルド人一家と些細な誤解から対立。CODAである主人公の古賀夏海と、クルド人一家でただ一人の日本語ネイティブであるヒワは、両家の通訳として矢面に立たされます。当初は対立しながらも、徐々に理解者として仲を深めていく二人。はたして両家の、商店街の、夏海とヒワの運命やいかに?というお話。ろう文化とクルド文化を背景にした、笑って終わるロミオとジュリエット、といったところでしょうか。
でも、笑劇ではなく風刺劇。だからとても多層的で、奥深い。脚本。展開。演出。キャスティング。演技。制作背景。すべてのレイヤーに社会を見つめる視点を感じます。
さらにテーマも広範。ろうという文化や身体性、差別、格差、言語、教育といった問題・課題が真摯に、シリアスに描かれている。登場人物たちからしたらのっぴきならないのですが、だからこそ笑いを誘う。笑ってなければ泣けてくるような分断のご時世に、笑わせながら考えさせる映画は名作です。
ということで、映画「みんな、おしゃべり!」の魅力を3つの観点に絞ってご紹介したいと思います。あ。ネタバレはありません。
テーマ:消滅危機言語コメディが問う「分かり合えない」のその先
この映画のポスターには、「通じ合わない人たちが、大混戦!!消滅危機言語コメディ!」とあります。
公式サイトにも「かつて言語として認められず、使用を禁止されていた日本手話。そしてクルド語。二つの言語を題材に、本作では言語格差や言葉の壁がシニカルに描く」とあります。
でも劇中で使われる言語は、日本手話とクルド語だけではありません。アメリカ手話、日本語対応手話、トルコ語、アラビア語、日本語、英語も登場します。
そこに重なる、それぞれのコミュニティ文化の違い、国籍や障害をとりまく差別意識、雇用や保障などの格差、偏見、誤解、マイクロアグレッションなどなど。言語の問題に無知やら無理解やらが混ざって、雪だるま式に混乱そして対立へと膨れ上がっていきます。
登場人物に悪人はいません。そのかわり、聖人君主もいない。差別はダメと分かっていながらもいがみあい、本音はただただ家族や仲間を守りたいだけ。そこから見えてくるのは「こりゃ、分かり合えるはずねーや」という、匙を投げたくなるようなリアルです。思わず苦笑いを浮かべた次の瞬間、誰しも自分を重ねてドキッとするのではないでしょうか。
その緊張感あるどん詰まりに観客は釘付けになるわけですが、そこでカギを握るのが沖田と古賀家の長男・駿です。沖田は、商工会の依頼で地域おこしを請け負った、やる気に溢れた正義漢。かたやの駿は、ろう学校の小学生。教室でも浮いていて、先生からは問題児扱いされています。私は、最も”マジョリティ”な役どころ=沖田、最も”マイノリティ”な役どころ=駿、という見立てをしていました。
実際、映画の終盤ではこの二人が対照的な行動をとります。「話はできるけど、分かり合えない。話はできないけど、分かり合える。これなーんだ?」私は、なぞなぞを出されたような、悩ましくもどこか楽しい気持ちになりました。これはすなわち「分かり合う」のイメージがアップデートされた瞬間でもありました。こりゃ面白い。
言葉で通じることなんて、たかが知れてる。そう思ったら、別の手段が見えてくる。選択肢とは、可能性です。そう思えば、たとえば同僚とのことだって、詰んでしまったわけじゃない。分かり合えない私たちには、分かり合う以外の方法があるのかも。そんな不思議な感覚でした。
構造:わかるように作って、わからせない。恐ろしいほどの緻密設計
前述したように、本作には実にさまざまな言語が飛び交います。しかもそのすべてに、話す、見る、聞く、書く、読むがあります。この膨大な情報を整理して、必要十分に観客へ伝え、コメディとして分かりやすい映像に仕上げるのは、とんでもなく緻密な設計が必要です。
なので劇中では、細やかな字幕が多用されます。これにより言語の多様さ、とりわけ手話が言語であることを、直感的に理解することができます。つまり「手話も言語なんだ。だとすると、ろう者は他言語話者。ならば彼らを勝手に障害者にしているのは、私たち聴者なのか・・・」そんなことが、鑑賞を通じて体験できるわけです。
さらに、この作品は「分かる」だけではなく、「分からない」体験まで設計されています。分からせない。あえて字幕をつけていない部分があるのです。
ここで浮き彫りになるのは、相手を理解することの難しさ。そして、観客が潜在的にもっている思い込みのキワドさ。私は、映画の前編と後編で、自分が登場人物をいかに偏見の目で見ていたかを痛感しました。とくにゴミ拾いシーンの伏線回収はご注目。この、観客を「うわぁ〜俺ってやつぁ!」に陥れる手際は、お見事の一言です。私はとっても気持ち良く、落とし穴に落ちました。ここだけでも、一見の価値がありますよ。
展開:反則こそ王道。絶対に「え〜!?」とのけぞってしまうラスト
「みんな、おしゃべり!」をお薦めする上で、ラストに触れないわけにはいきません。もうね、シックス・センス以来の仰天ですよ。
この映画はとても評判がよく、メディアで取り上げられることも多いようです。実際に客の入りもよく、これから上映期間が延びたり、館数も増えていくみたい。
ヒットしたからよかったものの、もしスベってたら、すべてこのラストのせい。そう言われるのを覚悟した大博打の大団円に、私には見えました。現場でモメなかったんだろうか。
でも私はこのラストを、こう考えています。
多層的かつ社会的なテーマ。それをわかりやすく伝える構造。観客を飽きさせない展開と語り口。本作はこれらが綿密に組み上がっています。それはつまり、端整にまとまってしまう懸念がある、ということ。読後感としては「あーよくできた映画だった」です。
でも。そこにおさまっていいんだっけ?この映画で描かれているのは、よくできているとは程遠い、社会のリアル。逃げ場のない小さな街で、肩を寄せたりつぶけあったりしながら、お互いどうやって生き抜くか。実は笑えないサバイバル・ストーリーです。そんなキレイに、チャンチャン♪で終わってたまるかい!
名作には波乱や破綻がつきもの。それは映画の神様を招き入れる亀裂のようなものです。だからこそ監督は、すべてをぶっ壊すようなラストにしたのかもしれません。いや、壊れてない。登場人物たちの成長を物語る”究極の話が通じないシチュエーション”として、ちゃんと成立している。反則に見せかけて、実は王道。
あぁ、なんか。監督はむしろあのラストを描くために、本作を撮ったんじゃないか、とさえ思えてきました・・・。ちょっと、もいっぺん確認したい。そういう意味でも、もう一度観たい映画です。
もう一度観たいといえば、この映画は音声ガイドを聴きながら観ると、さらに理解が進み、ぐっと面白さが深まると思います。とにかく、見るだけでなく読むことも多い映画なので、目だけだと見落としているものがたくさんありそう。この映画に音声ガイドが用意されているのは必然であり、見識も感じます。
なので1回目はそのまま。2回目は音声ガイド付きで、がオススメ。私もきっとそうします。UDキャストというアプリをスマホにダウンロードすれば、すべて無料。もちろん劇場で使えるので、イヤホンをお忘れなく。
もう一度ついでに、最後にもう一度。映画「みんな、おしゃべり!」マジでおすすめですよ!
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