模様編み、案ずるより編むがやすし
『ヤキモチと焼肉は男に焼かせるもの。』
世界の名言集に載せたい、我が母の言葉。
真っ赤なルージュの唇の端から、細く紫煙をはく仕草に、「こりゃほんとに焼かせてたな」と直感したのを覚えている。
元モデル。美貌で数々の男性を振り回し、その遠心力でみんなどっかへ飛んでいってしまった。一人も帰ってこなかった。
そんな母に育てられた私は、ものごとに執着しない妻と結婚した。いや、してもらった。
プロポーズの返事も
「あぁ。ええで」
以上。
夫婦生活17年で「欲しい」と言ったのは家電ばかりで、自分のための買い物などユニクロくらい。
結婚10年目にも、ジュエリー店へ入ろうとしなかった。
「あたしゃ酒がありゃええわ」
とか言いながら、デパ地下へ直行。
執着がなさすぎて、放っておくと白飯と袋麺ばかり食べている。結局、私が肉も野菜も焼いている。
そんな妻が
「これええやん」
と気に入ったのが、私の編み図本に載っていたバラクラバだった。
バラクラバって何?フード付きのネックウォーマーらしい。
しかも模様編み。
セーターの柄でよく見る、クネクネしたアレ。ねじりパンみたいなやつ。
編み図を確認すると、見たこともない記号が並んでいた。それで絵柄を作ったり、デコボコさせたりするらしい。記号たちを線で結ぶと「難」という文字が浮き出てきそうだった。
ふだんモノを欲しがらない人に限って、欲しがるときは遠慮がない。
しかし、次は何年先か分からない。
なんなら娘も
「あたしにも」
と乗ってくる始末。その図々しさは隔世遺伝です。
わかりました。私は模様編みのバラクラバに挑戦することにした。
そして、のっけから苦戦した。
これまで編んできたセーターやニット帽とは次元が違う。
まず、編み方。
これまでは「表編み」と「裏編み」という、基礎だけ知っていれば編めた。両手で鍵盤を叩ければ『ねこふんじゃった』は弾ける、くらいのレベル。
でも、模様編みは違う。
「左上1目交差」とか、糸を交える編み方も覚えなくてはならない。ピアノでいうクロッシング。
しまいには、編み棒を増やして三本で編む部分まである。もはや手が足りない。三本目の針が何度もすっぽ抜け、その度に指先が冷えた。
しかも、一目たりとも編み損じが許されない。
一カ所ミスれば模様がずれ、誤魔化せばさらにずれる。
編み目が減るならまだ分かるが、なぜか増えたりする。もう一人いる、の恐怖。ひぃぃぃっ。
しつこく数えながら編み進めたところで、5段や10段では模様が見えてこない。正しかったか間違ってたかは、はるばる編んだその先で、振り返って初めてわかる。
本当にクネクネを描けるのか、不安でしょうがない。編み地より、編み図を見ているほうが長かった。
夜な夜なテーブルで本を広げていると、その隣で妻の晩酌が始まることも多かった。
「仕事、変えるかもしれん」
缶チューハイに口をつけながら、彼女が言った。
長く業務契約している会社が、事業を再編する。人員も整理され、契約継続が怪しくなった。変えるといえば聞こえはいいが、つまりは雇い止めだった。
軽い口ぶりではあったが、最近、空き缶が増えてたのはそれだったか。
私は編み図から目を上げた。
ニュース番組を観る横顔。まつげが減った気がする。
もうすぐ50歳。「おなごが大学なんか行ってどげする」という家で育ったから、高校を出てすぐに働き始めた。結婚を機に東京に出てきて、ようやく授かった子どもはまだ9歳。
「節約せんとな」
少し張った声だった。
私は、彼女が心配だった。
堪えていないわけがない。業務知識のアップデートを欠かさず、正社員さんたちの休みを一手にカバーしていた。長期休暇など一度もとったことがない。
それを知っていた私は
「まぁまぁまぁ、なんとかなるよ」
と、できるだけ明るく返した。
「削るなら化粧品やな。外に出んくなるしな」
「んー」
彼女が何かを我慢するのが、我慢ならなかった。まして化粧品なんて必需品だろう。
「いや。化粧品くらい好きなの買いなよ。毎月いくらく」
「一万四、五千てとこやな」
東大クイズ王並みの速答だった。
「基礎化粧品だけやけどな」
やけどな、の意味がわからない。だけでも、の間違いではないのか。その強行突破っぷりからして、相場より高いのかもしれなかった。
しかし彼女は、結婚17年間の統計から、私なら間違いなくそう言うと確信していた。言質をフライングゲット、大成功。
正直をいえば、私は少し安心した。
新婚当時、私たちはお金がなかった。彼女は近所のフリマで化粧品を漁っていた。それを見て転職しようと決めた日のことを、思い出したから。
お金のことだけじゃない。不妊治療が続いた時も、彼女の心臓を手術することになった時も、私が休職に追い込まれた時も。二人してヘコんだり盛り返したりしながらやってきた。今になってみれば、それが私たちのパターンのようなものにつながっている気もする。
そのパターンに後出しジャンケンを含んでいいのか、については今後の議題としたい。
「減らすなら酒じゃない?」
「酒は減らせん」
OK、知ってる。
気づけば手元のバラクラバは、模様が少し見え始めていた。クネクネの兆しが、ちゃんとある。
20段目あたりから指が編み方に慣れ、編み図の全体像に目がいくようになった。流れに乗れるようになったというか。楽譜を読めるって、こういう感覚なのかもしれない。
なんだ。ここまで編めば、ちゃんと模様になるじゃないか。
基礎化粧品の継続が確定となった妻が、ご機嫌に二本目の缶を開けた。
「ええ感じやな」
いや。最初の数段は、やっぱりズレてしまっている。
これは娘のにしようと思ったが、妻には言わないでおいた。

模様編み冒頭あたりの段がずれているのがわかる。はい。これは娘用決定。
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