編み物をする父の日

編み物をする父の日
草冠結太 2026.06.23
誰でも

娘はゲームに没頭している。
妻は事件現場のように、床で夕寝をしている。

たぶん、彼女たちは、今日が父の日だと忘れている。

編み物中、私だけが気づいたハプニングだった。
いや、大丈夫。ぜんぜん気にしてない。彼女たちが元気なら、毎日が父の日。
いや、そもそも暗澹となるにはまだ日が高い。
そもそもでいえば、この情報化社会で「父の日」をスルーできるなんてありえるのか。

行き場のない思考を落ち着かせていたら、編み物に集中できた。
編むことで落ち着いた、と言った方が正しいかもしれない。

娘に編んでいる、フード付きのネックウォーマー。
段を重ねるほどに、模様編みが上手くなっていくのが自分でわかる。
針を三本使う編み方も、お手本動画はもはや無用。針の刺し方と抜き方、目の逃し方と戻し方。要領がつかめると、手に振りが付いたようで楽しくなってきた。

指先の動きが滑らかになると、柄や手触りも滑らかになってくる。
模様編みは、針の迷いが仕上がりにダイレクトに出る。始めた当初はノイズみたいだったのに、今は拙いなりにリズムを感じる。ウール糸だから、しばらく撫でたくなる気持ちよさだった。

そういえば母の日には、ちょっといいハンドタオルを娘と買いに行った。お刺身と日本酒も買って帰ったことが、芋づる式に思い出された。
猫背気味だった背中が、さらに曲がっていくような気がした。

いかん。針と糸の動きに意識を戻す。
繰り返し編んでいると、模様のメカニズムも分かるようになる。
たとえば、さっきの三本針を使う編み方。左上2目交差というのだけれど、クネクネした模様になる。セーターやニット帽でよく見かけるやつ。あれは交差するハイウェイのような立体構造にしつつ、交差した先で糸たちが美しく合流できるように計算されている。

なるほど。三次元にするから三本使うのか。
二次元から三次元へ。多次元化といえば、AIのディープラーニングも同じ発想だっけ。
企業や大学では、編み目構造が新しい建築技術として研究されている、とも聞くし。
編み方の多くは発祥不明だけれど、当時はイノベーションだったに違いない。それを文字通り"編み出して"きた、市井の天才たちを指先に感じる。

などと気取ったことでも考えてないと
「あのー」
と自分から切り出してしまいそうだった。
ダサい。敗北だ。というか、このパターンの勝利って何だろう。

「お父さん、お腹すいた」
娘の声がした。窓の外はとっくに暗くなっていた。
「おし。ごはんにしよ」
そのやりとりに妻が起き上がる。頬にラグの跡をつけながら、冷蔵庫から缶チューハイを取り出した。
「うんま」
彼女は毎日、初めて飲むように感動している。

私も去年までは、毎晩お酒を飲んでいた。飲まないと眠れなかった。
しかし編み物を始めてから、ほとんど飲まなくなった。今では冷えたノンアルが編み物の相棒だったりする。
だって、編み目や段の数を間違えるから。まして、表裏で鏡写しになっている往復編みを酔って編むなど、飲酒運転の次に怖い。
四半世紀以上も続いたアルコール依存があっさり治まったのだから、編み物の中毒性もストゼロ並みと言える。ぜったい違う。

とはいえ。飲んでないとやってらんない心境ではあった。
でも。待て。自棄になるのはまだ早い。
三人で食卓を囲んだ後に
「そうそう、これ私たちから」
みたいな展開は、どうだ。

私は敢然と台所に立った。
妻には鰹のたたきとマルチョウの小鍋。娘にはチキンカレーと無限ピーマンとバナナチョコ生春巻き。
テーブルに皿を並べると、二人はサブスクで昔のラブコメを観ながら、同じところで笑っていた。
ダメだこりゃ。
私は食事をのどに押し込み、続きを編むことにした。

模様編みは一段一段、編み方が変わる。少なくとも、私が買った編み図はそうだった。
しかし50段も繰り返せば、一段にかかる時間が読めてくる。
これが嬉しかった。

編み物は季節を楽しむ趣味。冬が来る前に。新生活までには。夏休み中に。シーズンに合わせて、やんわりと締切がある。どうせなら身に着けるものを編みたい、という私の貧乏性もあるかもしれないけれど。

でも大人のニッターはみな、スキマ時間をかき集めて編んでいるはず。ちょっとの時間でできるのは編み物の魅力なのだけれど、本当にちょっとしか時間がない、みたいなことがしょっちゅうある。

だからペースが読めてスケジュールを立てられるのは、安心材料だった。
いま編んでいる娘用のバラクラバの次は、妻の分も編む予定。このペースでいけば、秋までにハンドウォーマーとのセットも編めるかもしれない。

「おやすみー」
「アタシも寝るわ」
「はいおやすみー」
洗い髪のいい香りがする二人が、寝室へ消えた。その後ろ姿は、妻と、小さな妻だった。

静かになったリビングで、私はもう少し編んでから寝ようと思った。ここからは一人で、映画でも流しながら。

この日の成果は13段、約1,800目だった。全体の10%ほどの進捗。編み地を広げると、目に見えて完成に近づいていた。達成感。
布団に潜り込み、首と肩と腰が弛緩していくのを感じる。そのままゆっくり溶け出すように、眠りに落ちた。
編み物があって、よかった。本当によかった。

バラクラバ。なんとなく、それっぽくなってきた

バラクラバ。なんとなく、それっぽくなってきた

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