編み物で夫婦の冷戦は温まるか問題

編み物で夫婦の冷戦は温まるか問題
草冠結太 2026.09.30
誰でも

今年は冷夏だった。
草冠家だけ、局地的に。

8月に勃発した夫婦の冷戦。夏の思い出もヘッタクレもありゃしなかった。
しかも、9月末の今もそれは続いている。
沈黙の気まずさを紛らわすように編み物をしていたら、悲しいほどはかどった。編み物は孤独の嗜み。

きっかけはドライブだった。
せっかくの夏休みだからレンタカーで出かけよう。 
文字通り、死ぬほど運転が下手っぴな私は、妻に運転をお願いした。

そして、助手席で思い出した。
「黄色、当然。赤、勝負」
それが彼女のレーシング・スタイルだったということを。
信号が黄色なら、当然突っきる。赤なら一か八か突っきる。東京に出てきて17年。ハンドルを握ると、今だに地元の走りが戻るのだった。
妻いわく
「大分県民みんなそうやで」
絶対違う。

「次の信号を右方向です」
カーナビが聞こえた時には、黄色信号になって数秒経っていた。
妻がアクセルを踏み込み、直角にハンドルを切る。フロントガラスの景色が一気に左へ流れた。
後部座席の娘は
「うぉぉぉ」
と傾き、スリルを味わっている。ルパン三世にこんなシーンがあったっけ。

「子ども乗ってんだぞ」
私は反射的に声を張り上げた。こういう時、地声が高いと悲鳴に聞こえるのが情けない。というか、悲鳴だった。
妻が怒鳴り返してきた。
「アタシはぇ」
訳します。私のことはどうなんだ、です。スリルにつぐスリル。
「ごめん」
私の謝罪は無視され、そこからカーナビの声だけが車内に響き続けた。

以来、今日に至るまで妻は
「邪魔」
としか言わなくなった。低カロリー、高殺傷能力。それさえそのうち面倒になって「邪魔Tシャツ」でも作るんじゃないか。

確かに、運転を任せっきりにしたのは良くなかった。彼女にとっても夏休みだったわけで。
いや。似たような不満がもともと溜まっていたのかもしれない。私が思い至らなかっただけ。きっかけがドライブだっただけ。

夫婦終末時計が、チッチッチッチッと0時に近づいていく気がする。「邪魔」の次に出てくるのは「離婚届」かと思えば、私は部屋の隅に縮こまるしかない。
イジイジと編み物をしながら、横目で妻の横顔をチラ見する日が数週間も続いた。

編み物を始めて一年半が経つ。
始めた頃には構造を理解できなかった模様編みも、だんだん手が理解するようになった。
「ほんとにできるんだ」
ユリイカ!のテンション。
指先が動くようになると、糸の流れまで見えるようになるから不思議だ。
編み棒と糸動きに集中する。雑念が消えていく。その分、耳が鋭敏になっていく。

妻の足音が行ったり来たりする。
台所。洗面所。寝室。玄関。静寂の中に響く足音が、どこか軽くなったような気がした。
目だけで音の後を追う。
テーブルの向こうに見え隠れする妻の足が、いつのまにかすっかり細くなっていた。
転んだ彼女を想像して、心配になる。ただでは起きない人なのは知っているが、そういう問題ではない。

さらに気づいたことがもう一つ。
どうも、家事の時間が長くなった気がする。

私が編み進むペースは、1段で約10分。
妻が食器を洗う間、洗濯機を回す間、掃除機をかける間。それぞれ何往復もすることになった。やたらと編み物がはかどったのはこれが理由。

妻が担うのは食洗機、洗濯機、掃除機といった「機」を操る工程が主だった。その前後やそれ以外の家事は共同作業、もしくは私の担当。以前はもっと早く終わっていた気がする。
掃除機にいたっては、ヘッドの耐久性をテストするように、巾木に打ち付け続けた。

そんな妻の様子が、少しだけ違って見えたのは先日のこと。

夜中。私がこっそりソファで編み物をしていると、寝ていたはずの妻が寝室から出てきた。
無断で定位置に戻っていた私の焦りなど視界に入れず、一直線に食卓へ向かい、私の睡眠導入剤を口に放り込んだ。錠剤が苦手な彼女は、鳥が魚を丸呑みするように首を反らせる。
「二錠くらい飲むと効くよ」
「知ってるわ」

薬が減っていることも、彼女が眠れてなかったことも、私は気づいていなかった。
痩せたり、イラついたり、寝付けなかったり。沈黙の裏で、彼女の体には彼女にしかわからないことが起きていたのかもしれない。
体調のせいばかりとは限らないのは分かっている。でもそれにしたって、私には気づいていないことが多すぎた。

「大丈夫?」
「アカン。歳やわ」
彼女が、私の知らないところでおばあちゃんになっていくのが、イヤだった。だから結婚を申し込んだ。
そこからの17年は、あっという間に過ぎた。
彼女だけじゃない。私だって去年、休職をした。「これまで通り」が通用しないことを経験したばかりだった。
私たちに流れる時間が、緩やかに変わっていくのが見えた気がした。

今、私が編んでいるのは、妻のバラクラバ。
モタモタしてるとすぐに寒くなってしまうから、夏のうちに編み進んでよかった。冷えは大敵。
でも、ホットフラッシュもあるかもしれない。妻は着けてくれるだろうか。
「邪魔」
と言われる可能性は高い。むしろ確実とも思える。

ま、いいか。腐るもんじゃなし。あ。ウールは腐るか。ちゃんと保管しておこう。

編み途中のバラクラバ。完成まであと30段。

編み途中のバラクラバ。完成まであと30段。

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