重い障害を負った江里さんの12年に密着した映画『江里はみんなと生きていく』感想
そんな哲学みたいなこと、自分らしくない。でも、悪くない。
映画の主人公は、画家であり、詩人であり、社会福祉法人の職員でもある西田江里さん。彼女には重い障害があり、生活のほぼ全てが車椅子かベッドの上。人工呼吸器をつけていて、24時間365日ケアスタッフの介助をうけて暮らしている。
本作はそんな江里さんとケアスタッフの皆さん、そしてお母さんの12年間を追った物語。監督である寺田靖範氏も「どれくらいカメラを回したか見当がつかない」と言うほど、長大な時間から選りすぐられた90分間だ。
生きる意味とは?だけでなく、家族とは?福祉とは?コミュニケーションとは?などなど。とにかく多様なテーマを含んでいて、いかようにも語れる作品だと思う。
なのでここでは映画としての面白さについて、私の印象に残ったシーンを3つに絞って紹介したい。一人でも多くの人に、できれば大切な人と、ぜひ観てほしい映画です。
弦を弾くように。繊細で不思議な指先の会話
とにかく鮮明に覚えているのは、江里さんの会話シーン。
彼女は障害ゆえに、口頭で言葉を操れない。幼少期から目と顔の表情、声のトーンなどで、お母さんやケアスタッフさんたちとコミュニケーションをとってきた。そのうえ障害が進行し、気管切開をして人工呼吸器を装着することになる。つまり、声まで失ってしまった。
しかしそれは、言葉を持ってないということではない。指。彼女とスタッフさんは、指先で会話していた。のだが。それは私にとって初めてみる会話方法、というか動きだった。
江里さんとスタッフさんが手を握りあう。スタッフさんは握手しているところに、もう片方の手を近づけて振る。ウクレレを演奏するように。とても繊細なのは分かるのだけれど、それにしても不思議な動き。何をしているの?なんでそれで伝わるの?
舞台挨拶に来ていた監督に質問してみると、彼は私の手をとって実演してくれた。どちらの手でもいい。聞き手は人差し指をたてる。それを話し手に握ってもらう。これで指さし棒のできあがり。話し手はその指さし棒で「あ」とか「い」とか「う」とかを、聞き手の空いた方の手のひらに書く。聞き手は、その動きから文字を感じとる。緊張した時、手のひらに人という字を書くけれど、あれをペアでやる感じ。
指談(ゆびだん)。呼吸が合ってくると「え」の動きをしただけで「江里」などと予測変換できるそう。弦を弾くような動きは、文字を早く正確に感じるためだった。
江里さんは作中、スタッフさんにこう話していた。
「戻ってきてくれてよかった」
友人としての喜びなのか、被介助者としての安堵なのか。それらはもしかすると、彼女にとって不可分なのかもしれない。
スタッフさんは答えていた。
「江里さんのこと忘れるわけないからね」
白くて華奢な指を、優しく包み込みながら。
このシーンは明らかに、「介助する/される」とは違う関係を描き出しているように私には見えた。バディとか戦友とか、そういうものに近いのかもしれない。だとしたら、命を守ることはもちろん、命を預けることもまた戦いなのだろう。
あるいは、彼女たちの関係は、名前のつかないものかもしれない。だとしたら、それはきっと柔らかく、壊れるということがないのだろう。
こんな関係が成立するものなのか。体温を確かめ合うように手を握り、言葉以上の何かを目で交わす二人に、私は見入ってしまった。
江里さんが始めた一人暮らし。その時スクリーンから消えたもの
江里さんは、27歳頃から一人暮らしを始める。親元から離れ、頼るのはケアスタッフ・チームのみ。正直、これには驚いた。
でも、そもそも彼女はバイタリティの人。障害が彼女の全てじゃない。高校卒業までに47都道府県を巡っているし、プールも行くし、外食やおしゃれも好きだし、リサイクルショップで店員としての勤務経験アリ。詩を書くし、絵を美術展に出展するし、本だって出す。つまりクリエイティビティの人でもある。
だから本当は、驚くまでもない。親元から離れて暮らす江里さんの目が、爛々としているが見てとれる。20代の若者なんだし、いたって健全なワクワク。
そしてここでも、印象的なシーンがあった。
江里さんが一人暮らしをした途端。彼女の部屋から、母・良枝さんの姿が消える。
自立したのだから当たり前ではあるものの、それにしてもお母さんが部屋にいない。いないのが気になってしまうほど、いない。
良枝さんは江里さんを守り育てることに、文字通り人生を注いできた。自分の生活と江里さんの生活、他人の二倍を生きてきた。自分だけじゃない。ケアスタッフさんにも綿密な指示を出し、ときには厳しいことも言う。女優さんのような人だし、法人代表でもあるから、かなりの迫力。おっかない。
それが親としての想いからくるものだと、前半までを観ていれば十分すぎるほど理解できる。感情移入もあるかもしれない。だからこそ、パタリと良枝さんの姿が見えなくなったことに、私は狼狽えた。
「自立とは、頼れる人がたくさんいること」と、ある学者は言った。なるほどとは思うものの、江里さんの場合はそう簡単なことではないはず。それでも良枝さんは、干渉しない、しゃしゃり出ない、そっけないくらい潔い。
カメラは楽しげな江里さんと、彼女を支えるケアスタッフさんたちを、画面いっぱいにとらえる。そこにはもう、良枝さんの映り込む隙などないように見えた。
勇気のほとんどは、誰もいないところで振り絞られる。身を引く決心なら、なおさら。きっと、彼女もそうだったのかもしれない。
母上、お見事。
「ここは極楽」20年の時を経て、ラストシーンに重なる同級生の一言
この映画は、江里さんの12年間を追ったものだと書いた。しかしそれは、監督がカメラを回している期間だけ。母・良枝さんが「いつか使うことになるかもしれない」と撮りためていた幼少期のホームビデオも、作中ではふんだんに使われている。「こんなこともあろうかと」。一度は口にしてみたい日本語。
映画の序盤。カメラがようやくテープからデジタルへ移りはじめた時代。少しザラザラした画面には、西田家のリビングの様子が映されている。バブルの名残を感じさせるお母さん。抱きかかえられる江里さん。親娘を取り囲むように遊んでいる、江里さんの同級生たち。その中の女の子が、温泉につかったように言う。
「ごくらく〜、ここにいると」
お気楽、極楽。私は思わず笑ってしまった。しかし。まさかその一言が、20年後のラストシーンと重なってくるとは。
いかんせん本作は長期にわたる撮影。「チーム江里」のケアスタッフさんたちも、入れ替わっていくのは当たり前。多くは結婚や出産で辞めていくらしい。おめでたいのはいいことだ。
とはいえ、医療的ケアにも習熟したスタッフさんに去られてしまうのは、江里さんにとって文字通り死活問題。数々の出会いと別れを繰り返してきた終盤には、かつてのスタッフさんたちが江里さんのもとに戻ってきてくれて、再び合流する。
めでたしめでたし、で本作が終わるわけがない。実はそこに、超・長期密着取材だったからこそ撮れる”特別なお客さん”もいて・・・。
「うおー!まさにあん時の子が言ってた極楽な展開じゃん!」
そしてエンドロール。
江里さんの部屋はきっと、安穏なばかりではないだろう。穏やかながらも、緊張感は途切れないはず。消毒液の香りすら漂っているかもしれない。全力で命をつなぎとめるという意味では、「極楽とは真逆の場所」という言い方だってできてしまう。
それでもなお、あの同級生の一言から約20年を経た今でも、彼女の部屋は「極楽」なのかもしれない。その理由はラストシーンで、”特別なお客”の存在自体が物語ってくれる。出会い、ともに生き、歳を重ねた先で、命が新たな命へつながっていく。ネタバレは野暮。ぜひ映画で確かめてほしい。
生きる意味ってなんだろう。
『江里はみんなと生きていく』を観ると、どうしても考えてしまう。しかし、そもそも私はこの問いが嫌いだった。この問いを持ちえない人を、足切りしているように感じるのだ。
一方で、江里さんは著書にこう書いている。
「私の夢は、私の人生が不幸ではなく、幸せだと理解してもらうこと」
「社会にとって、幸せに生きてるって言える人がいることも大事じゃないのかな?」
生きることの意味など、私には分からない。しかし江里さんの人生を追ったこの映画には、確かに意味があった。幸せに生きてると言える人は、間違いなく世の中に必要だ。それはきっと、愛を歌う人が必要なのと同じだ。
私にとって、それは妻と娘だ。彼女たちは幸せを感じてくれているだろうか。その前に私こそ、幸せだよと伝えるほうが先か。この映画なら、きっかけになってくれる。今度は三人で観ようと思う。
大切な誰かと生きるすべての人に、おすすめしたい映画です。
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