ママにとっての卒業式〜女豹の涙〜

ママにとっての卒業式〜女豹の涙〜
草冠結太 2025.03.24
誰でも

卒業式といえば、桜。そうなったのはいつからだろう。私が中学生だった頃は、入学式の花だった。

もしも卒業式色というものがあったら、今の人たちにとっては、淡紅色なのかもしれない。

ちなみに。私にとっての卒業式色は、豹柄だ。もはや色ですらない。あの日、学校に女豹が放たれた。

阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きた、1995年。3月のある日。私はいつもの制服をきて、かかとに穴の空いたいつものスニーカーを履き、玄関に立っていた。いつもと違うのは、ネクタイを締めていることだけ。卒業生に義務付けられた、ささやかなドレスコードだった。

卒業式だから、教科書も弁当もいらない。ほとんど空っぽの鞄を手にすると、唐突に両腕が拘束された。「大きくなった。大きくなっちゃった〜」母が後ろから、私を羽交い締めにしてきたのだった。

今でいうバックハグ。ファンデーションが香り、彼女が背中に頬を埋めているのがわかる。

「今日はワタシにとっても卒業式だから」

子育てからの卒業、と ”この支配からの卒業” の節回しで彼女は歌った。字足らずを強引に歌いきるところが、彼女らしかった。私は、胸の前で組まれた、冷え性の彼女の手をポンポンとたたき、そっとほどいた。

「ほら、ファンデがつくから。行ってくるわ」

「ん。またあとで」

私は、彼女のマスカラが流れ落ちるのが心配で、振り返ることはせずに玄関を出た。

我が家はシングルマザーの家庭だった。母は女手一つで私と弟を育て上げた。というわけでもなく、ホストや風俗嬢などをタフな人脈からスカウトしては、ルームメイトとして招き入れていた。おかげで、親子三人でポツンと暮らした記憶はない。

ポツンはなかったが、ガツンはあった。母は誰ともぶつかり、最後はケンカ別れ。みんな母から逃げていった。出会いより別れの方が多かった気さえする。当時は元ヤクザの、愛称「おいちゃん」と一緒に暮らしていた。私を高校に入れてくれたのも彼だ。卒業式に列席するらしい。危なっかしい母と、元ヤクザのおいちゃん。草冠家のナンシーとシドが、卒業式でおとなしくしてくれるかどうか。一歩一歩祈るお遍路のような心持ちで、快晴の通学路を急いだ。

足を踏み入れた体育館は、ココナッツのようなワックスの匂いが漂っていた。この日のためにかけ直したのかもしれない。卒業生用のパイプ椅子は座面が硬く、脚も歪んでいて落ち着かない。旅立つ者に居心地の良さは無用。そう言われている気がした。上履きの先が花冷えに縮こまる。

保護者が集まりはじめたと、背後の気配で察する。

「ウケる」

「すげーな」

「誰?誰の?」

戸惑い、顰蹙、嘲笑、怯え。いろいろな声が耳に届いてくる。私は嫌な予感を振り払うために、開会前からベソをかいていた同級生を笑わせることに集中していた。俺は関係ない。草冠家に関係ない。だからそっちは見ない。

が、無駄だった。隣に座っていた友人が私の肩を叩き、耳元でささやいた。「あれ、結っちゃんのママっしょ」親指で、体育館の後方を指差す。その先を目で辿ると、いや、辿るまでもなく、そこに母がいた。女豹のような母が。

上から下まで刺青のような、豹柄のボディコン。二度の出産を経てもなお、奇跡のように崩れていない、スレンダーなプロポーション。元ファッションモデルとしての矜持を見せつけるかのようだった。

ここで魅せねば女がすたる。ガキもセンセも御覧じろ。彼女にとっては、卒業生も教師も保護者も、ランウェイの観客にすぎなかった。いわば、卒業式を喰ってやろうとしていた。

正直、彼女は豹柄がよく似合っていた。なんなら豹よりも豹に見えた。保護者席の最前列。おいちゃんの隣で真っ直ぐに背筋を伸ばし、私を探すその姿は、さながらチーターだった。ちなみに、チーターは豹じゃない。

「結太〜!」

私と目が合うと、パクパクと口の動きだけで私の名を呼び、手を振ってくる。満面の笑み。私の歯並びの良さは、彼女譲りだ。私はやむなく、手を振りかえした。なぜか友人も振りかえした。事態を察した、というか卒業式のハプニングを期待していた彼は「ヒヒヒ」と笑って喜んでいた。

神様も仏様もありゃしない。あるのはお母様だけ。私は思わず天井を仰いだ。

式が始まっても、送辞とか答辞とか、校長先生の訓辞とか、一切覚えていない。覚えているのは、これから起こる何かに、ひたすら怯えたことだけだった。この式が平穏に終わるわけがない。しかしそれが何なのか、覚悟のしようがない。義務教育で教えてほしかった。国語・算数・理科・覚悟。

その何かは、間もなくやってきた。卒業証書授与。卒業生一人ひとりが舞台に呼び出され、呼び出しを食らったわりには以下同文とかなんとか省略されながら、紙っペラを校長から手渡されるアレ。

「草冠結太」

「はい!」

壇上から名前を呼ばれた。私は会場を視界に入れないように、前だけを見据えて舞台に上がる。想像はついていたのだ。白やネイビーでフォーマルにきめた保護者たちのなかに、豹一点の母。そんな彼女が、今かいまかと私の登場を待ち構えているのを。

舞台には私一人。群れから取り残されたガゼルは、サバンナであんな絶望を味わうのだろうか。

「結太〜!よっ!まってました!カッコいいよ!」

パチパチパチ!ひときわ大きな拍手とともに、母が大向こうから合いの手を入れた。体育館にこだまする。彼女に視線が集中する音が聞こえた気がした。卒業式らしからぬ笑い声に、場内が沸く。

キマったー!間違いなく彼女の瞳は、爪痕を残した悦びで爛々としていただろう。

私は首から上だけ、瞬時に火照るのがわかった。以下同文された証書の文面を読み込むことで叫びを抑え込み、ドサッと自席にたどり着く。動悸が止まらなかった。

証書授与の羞恥刑に打ちのめされた私をよそに、式は校歌斉唱へ。いわばエンディングテーマにまで、彼女の歯牙も及ばないだろう。まさか一緒にシャウトすることはあるまい。短いピアノの前奏、そして学舎を讃える歌が始まる。

うぅ。うぅぅぅ。ぐすっ。うぅ。すんすん。うぇっうぇぇぇぇ。

振り向かずとも分かった。母が泣いていた。途中から声を押し殺すのをあきらめていた。どの保護者よりも大きな嗚咽が、斉唱にコーラスを添えるようだった。

泣くつもりのなかった私も、鼻の奥が痛い。歌舞伎町のヤクザ専門のクラブでホステスをし、エステティシャン、アパレル店員など、職を転々としながら、私を育てた。違法なことにもいくつか手を出していたのを知っている。

親族からも見限られた彼女が、恩着せがましく語ってくる苦労とやらに、同情するつもりはなかった。息子の私からみれば、身から出た錆が多過ぎた。

しかし、それでも情はわく。

外反母趾で歪んだ足を、夜通し揉んだこと。便器を抱える彼女の背中を、擦り続けたこと。私が作ったチャーハンを、大ご馳走のように頬張っていたこと。

彼女と私は、なんとか生き延びてきた。私たちに泣いている暇はなく、なんとか親子であり続けることに必死だった。たかだか義務教育が終わるだけなのに、とても遠くまで歩いてきた気がした。彼女はきっとまだ心の中で、私の手を引いているのだ。

あまりの鳴き声に、彼女の病んだ心臓が気になった。その瞬間。

「うるせえ!めでてぇ席で泣くんじゃねえ!みなさんがたのご迷惑だろうが!」

おいちゃんの怒鳴り声が、体育館の天井を突き刺した。シロウトさんにご迷惑をかけちゃならねぇ。それが彼の流儀。

会場全体の泣き声が、ピタッと止まった。もちろん、私も。何事もなかったかのように演奏しきったピアノの胆力に感心したのを覚えている。たった一つのすすり泣きが、さっきよりも少し小さめに、ずっと耳に届いていた。

教室に戻ると、クラスメイトたちは誰も何も触れてこなかった。唯一、家庭の事情を知っている担任だけが

「あー面白かった。草冠んちはやっぱ面白いな」

と爆笑していた。いつもジャージ姿だった彼はその日、ダブルの礼服だった。あぁもうこの人に会うこともないのだなと、理解者を一人失う心細さを感じた。

そこからどうやって家に帰ったのかは、やはり覚えていない。たぶん、卒業証書の入った筒をポンポン鳴らしながら、いつもの顔で帰ったのだと思う。

覚えているのは、在校生席から一部始終を見ていた弟がおめでとうも言わず、部屋にこもっていたこと。そして女豹が、ひと仕事終えた笑顔で私に抱きついてきたこと。ネコ科の大型肉食動物がジャレてくる恐怖感って、ああいう感じなのだろうか。愛はあるが、話は通じない。

「それにしても、なんで豹柄だったの?目立つ服なら他にもあったでしょ」

彼女いわく

「あら。水着よりはマシだったんじゃない?」あんだけ泣くなら、いっそ水着の方がよかったんじゃないか。

(おわり)

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